生涯健康に恵まれなかったボイル。
彼は病気についても深く興味を持ち、医学に科学の実験的方法を用いるべきことを唱えた一連の著作を著しました。
この他、彼は薄膜を研究し、色の性質に関する実験も行いました。
・・・生涯の終わりの頃、ボイルは多くの栄誉や高い地位を提供されました。
しかし、これを受け取らなかったのです。
1680年には彼は王立協会の会長につくことを極力拒みました。
この偉大な科学者・・・
そして科学に実験的方法を持ち込んだ人物は1691年12月30日にロンドンで亡くなりました。
オックスフォードに14年間住んだのち、彼はロンドンに移り、死ぬまでここで過ごしました。
ロバート・ボイルが行った最も重要な実験はマグデブルクの半球で知られたオットー・フォン・ゲーリッケの空気ポンプに関するものです。
彼はこの実験で圧力を下げて水を沸騰させたり、空気の目方を測ったりしました。
新しく設立された王立協会で空気の目方を測る実験を行ったところ、「陽気な専制君主」の評判がある国王チャールズ2世をはじめ科学者でない人びとの間で笑いさざめきが起こりました。
熱についてのボイルの理論は気体の究極粒子に基づく現代の運動理論に非常に近いものでした。
ボイルの最も偉大な科学上の貢献は、おそらくは化学に対する彼独特のアプローチの仕方でしょう。
彼はアリストテレス流の化学の観方を廃し、自然を形づくるあらゆる物質は根源的な簡単な要素で構成されるとする原子論を唱えました。
彼は物理化学の創始者というべきで、物質をこれ以上は分解できない究極の素子から成るとする観方を主張しました。
彼がものの観方をこのように変えたことを思うと、ボイルが化学の教科書でほとんど扱われていないのは理解に苦しみます。
財産には恵まれていて生計のために働く必要も無かったので、彼は終生科学への興味にひたることができました。
家庭の地位が非常に高く、このため進取的な若い科学者だった彼はたやすく宮廷のサークルに近づくことができ、彼は後に王立協会の設立に関与することとなりました。
・・・若いとき、ボイルは個人教育を受たのち8歳でイートン校に入学し、語学に対する鋭い能力と抜群の記憶力が注目を惹きます。
イートン校に入って4年たったときイングランドに内戦が起こり、ボイルは大陸へ送られました。
フランスとイタリーで数学、近代史学、地理学を学び、その他フェンシングや舞踏といった紳士の技にも熟達しました。
アイルランドの反乱で領地が脅かされたので、ボイルは取るもとりあえずロンドンに立戻って事件を解決し、のちドーセットのストールブリッジに落ち着きます。
そしてここで6年間、科学の研究や哲学の著作、農事などに励みました。
その後、ボイルはアイルランドに帰って領地を回復して再びイングランドに戻り、オックスフォードに住んでいます。
彼の実験的な仕事の大部分はこの地で行われました。
ロバート・ボイルの名前は、初等物理を学んだ者なら誰でも気体に関する「ボイルの法則」でよく知っています。
この法則は普通「ある与えられた温度において、与えられた質量の完全気体の体積は圧力に反比例する」、あるいは数式で pv=C(Cは定数) と表されます。
・・・こういった厳密な表現をロバート・ボイルが見たらびっくりするに違いありません。
彼は科学の世界に定量的な関係があるなどとは信じていませんでしたし、数学を使うのはもちろん彼なりの理由はあったのですが一人をたぶらかすものでしかないと、うさんくさく思っていました。
彼が行ったたくさんの科学的な観察結果は最小限の数学を使って表わされましたが、これは彼が広く大衆にアピールしたかったからです。
ロバート・ボイルは1627年1月25日、アイルランドのコーク州リスモアで、コーク伯爵サー・ロバート・ボイルの7番目の息子として生まれました。